「家」という人格の次代。

Takekoshi Co.,Ltd. - President Takayuki Takekoshi - 2018.7.17

株式会社タケコシ

竹越 孝行

株式会社タケコシの2代目社長。
大学卒業後ITシステム構築の会社に入社。
2年の経験を経て、タケコシの前身である竹越製作所に入社。
工場で金属加工の経験を積み、営業職を経て、役員になる。
40歳の時に社長を継承し現在に至る。

法人格の二代目社長であり、
竹越家の十五代目当主。
思考の源泉には「家」がある。

「家業」とはなにか。現代では、”家が営む商売”という認識が一般的です。しかし歴史に記されている生成過程は深遠です。たとえば縄文時代や弥生時代には漁師や道具師などの役割があったと推測されるので、親から子に技能を伝えることがその萌芽であったでしょう。1000年以上前には、礼家、薬家、法家といった家柄が誕生し、律令制国家である日本において重要な役割を担います。ここでは、親から子へ家業として知識やノウハウが受け継がれていきました。文化の領域では、華道や茶道といった「道」に内包される技能体系が世代を越えて継承されます。子に残されるものは膨大で、知識、技能、権威性、一門の監督権限にまで至ります。実は、家業=家が営む商売とされたのは近現代。法人という存在が明確化され、「経営」という手法が体系化されたことが契機だと言えるのではないでしょうか。
竹越社長はプレスや板金といった金属加工業を営む株式会社タケコシの2代目。同時に、竹越家の15代目当主でもあります。農業を生業としてきた竹越家が、どのように時代を読み、商売の多様性を追求し家の存続を思案していくのか。その視野の源泉には「家」があり、社会を見つめる視線には次代につなぐ「家が受け継いできた生きるための業」がありました。

「習得してきた」という自信が、意思決定を支える柱。

2代目としてタケコシの社長を引き継いだのは40歳の時、約15年前になりますね。大学時代は東京ですごし、卒業後は東京のシステム会社に勤め官公庁や大企業のシステム構築に携わりました。自分にとって会社を継ぐことは、意識はしていても既定路線と考えていなかった。しかし東京で働いたことで、燕で見て来た仕事への愛着を感じるようになった。そこで、2年で会社を退社し燕に戻りました。タケコシに入社してから、現場での加工作業を7年、関係企業への営業を8年ほど経験。現場をしっかり理解したことが今の自分を支えている。
たとえば、加工作業が本質から理解できるということは、人、機械、時間、コストなど必要なリソースをイメージできるということ。自分は今、現場で作業をしても一定レベル以上の加工ができる。営業もまた同様。そこに経営者として、会社の技術状況、人材のレベル、受注状況、決算、月次の財務など、法人の状況把握に必要な情報が加わる。結果的に、機械に問題が生じても、加工工程に問題が生じても、作業イメージから財務状況までをイメージし改善のきっかけを発見できる。経営者の仕事は、細かな判断から大きな決断まで意思決定がすべてといっていい。会社状況、社会状況、未来予測といった広範な情報を把握した上で理解し、意思決定を行うことが経営者の責務だと考えている。

解決のための方程式が
確かにある。

自分は、仕事上で発生した課題を解決することにモチベーションを感じることが多い。そこには、方程式のようなものがある。たどり着きたい答えは明瞭でも、プロセスがわからないというものが多いですからね。解くには経験も必要ですが、社会的な情報、自然事象、人類の叡智を含めた広範囲な知識に興味をもっていると、人が思いつかないようなやりかたで未知数が導けることがある。結果的に、思いがけない品質の向上や、作業の効率化などが実現できる。たとえば金属加工も、社会情勢や新しいビジネスなどに興味を持つことで技術を多角的に理解できる。これは基本誰もが有している能力だと思っている。

しかしながら、この方程式を解く上で必要な人材などとの出会いは運に左右されることも多い。やはり運は大事。出会いの瞬間にそう感じる運もあれば、後になってわかる運もあります。ただ、結果的に”自分は運が良い”と思えることに越したことはない。ではどのように運が育つのかといえば、やはり、日常の振る舞いにおいて正しいことを蓄積することが最も近道ではないかと思う。完璧にこなすことは不可能だが、続けようと心がけ行動していれば必ず誰かが見てくれている。会社に関わる人もそう、仕事先の人もそう、日々接してくれる人もそう。人に信頼される人間であり続ける行為のすべてが、運の良さを作っていく。

家は人格になりうる。。

世の中には個人、法人という2つの人格があるが、自分は「家」も人格になりうると考えている。これは竹越家が15代続いていることが影響しているのでしょう。自分は「家業」=家が営む商売という捉え方をしない。本質的な「家業」とは能力やノウハウのようなものだと考えている。たとえば、父親に子供が似て、話術に長けていたり、ものづくりに長けている人間になったりする。こうしたものが、家に蓄積されたノウハウであり家業ではないか。
タケコシの先代は28歳の時に会社を起こしている。約50年前のことです。竹越家は百姓の出だと言われ歴史的には農家が長いが、その時代は農業が急速に工業化し高価な機械の導入が必須となりつつあった。高価な農業機械を購入するのは困難であったし、コメ価格や農作物の価格の問題もあった。そこで先代は自分の地所に工場を作り、金属加工業を始めた。これが、竹越家の新しい活路を切り開くことになった。先代は他業種からの参入で既成概念がなかったため、ある程度事業が軌道に乗ってからいろいろな商売を試みている。それを見てきた自分にも、トライし、新しい情報やノウハウ、ネットワークを蓄積していくマインドが育まれている。この思考や手法こそが、今の竹越家を支える”家業”なのかもしれない。

多様性に富んだ環境を
つなぐ礎でありたい。

燕の環境がなければタケコシも竹越家も現在のような姿にはならなかったでしょう。燕の経営者の層は厚い。引退された先達たちから、現役の社長たち、代替わりした若手社長に至るまで40年分の人材が同時に存在している。社長は孤独な意思決定者だが、燕においては、様々な社長たちが仲間でありときには競合関係者となりながら情報を共有してきた。仕事を融通し合うこともあるし、相互が下請けになり技術を磨くこともある。経営者にとって燕の環境は間違いなく豊かだ。
家という立場で言えば、農家としてこの土地の環境と歩み400年以上になります。ここは、新幹線と高速道路が同時にできてから、しっかり街として成長した全国でも稀有な事例。地場産業の強靭さがこの環境を作っていることに疑いはない。燕で田畑を有していたことで、工場設立を始め新しい土地活用にも着手することができた。同じような農家もいくつか存在しており、情報共有も行なっている。人格を生かすも殺すも環境次第。この環境を作るのは、大きくは自然だが、結局は人格たちのなせる業だと思う。法人としても、家を受け継ぐ存在としても、自分は、こうした燕の環境を発展させながら次代に継承していく礎でありたい。