阿部工業の2代目社長。
高校時代からバンドにのめりこみ、
ドラムの腕前はプロ級。
家業にも関わり、19歳で阿部工業入社。
23歳で音楽の道を断ち、
本格的に会社経営に着手。
30歳を過ぎてから、
いち早く精密板金分野に取り組むなど
新しい阿部工業の姿を創造し続けている。
お客様が来社された時、できる限りその仕事に関わった人間を立ち合わせたい。社内における百のコミュニケーションより、お客様からもらう一言の方がはるかに重く影響力があるからです。モチベーションが高まる機会はそう作れるものじゃない。ありがたいですよ。とはいえ恥ずかしがって遠慮する人間もいれば、忙しいのを言い訳に参加しない人間もいる。まずはそれでいい。結果的に社員の顔が見えてきます。
「必要とされる」ためには、必要とされていることを実感することが大事。そのための機会をたくさん作りたい。たとえば、もともとは社内で抱える2000を超えるアイテムの製造が混乱しないようにと導入した労務管理システムも、今ではどの工程で誰が作業をしたのかという責任を可視化し自信につなげるツールとして認識されるようになった。会社全体がそういう意識を育んでくれた。こうやって生まれたプライドはきちんと醸成して力になっていきます。
阿部工業は15年ほど前まで、ほぼ受注の100%を特定の企業から得ていた。安定していて大きな問題はなかったです。当時の仕事は、様々な建設用の金具をプレス加工するというもの。そこに、中国が急成長し価格競争の波が来ていた。技術の進歩も目覚ましい。不安でしたね。特定の企業からの受注だけでは、社会状況を読み取るのが難しくなっていた。仮に建築業界に技術革新があって部材が変わってしまえば我々は吹き飛んでしまう。ちょうどその頃、精密板金という分野が少しずつ台頭しつつあり大きな可能性を感じたのです。幸い燕には、いち早く精密板金に取り組んでいる会社があった。断られる覚悟で教えてくださいと頭を下げに行ったら、社長は「面白い、死ぬ気で来い」と言って受け入れてくれた。今でも師匠です。僕を含めて5名が1年間通いました。自社にも本当に迷惑をかけた。無我夢中でしたよ。
そでも3ヶ月後、向こうの社長に「阿部くん大変だろう。抜けても構わないよ」と言われたのです。その時僕は30歳を越えたばかりで、すでに阿部工業の役員でした。自分の会社のことを気にしないわけにはいかない。どこかで言い訳にしていたんでしょうね。態度とか言動から見抜いて助言してくれたわけです。でもここで抜けたら、自分と他のメンバーとのレベル差は相当なものになる。負い目も生まれる。ハッとしました。気づきをくれて感謝しかなかった。この時期は本当に体がもたないんじゃないかと思うほどでしたが、やりきったおかげで今がある。この体験を会社の仲間と共有できたことが経営者として幸運でした。
大小関わらず、成功体験のある経営者にとって、現状を良しと見るか悪しと見るかは悩ましい。挑戦した結果の場合は特に。それは、とてつもない熱量と時間と労力を投資したから。成果が可視化されるようになるには数年を要します。投入したものがすべて吸い込まれていくだけのような不安を抱え、目の前にある仕事に手を出したくなる気持ちを押し殺しながら新しい仕事のために進む日々は、成功してなければ心底苦しく辛い日々に他なりません。
燕が素晴らしいのは、この土地にいる数多の経営者がそうした経験をしてきていることにあると思う。ある時には教師となりある時には反面教師となる存在がたくさんいる。いつでも相談でき、熱い助言や叱咤激励が飛んでくる。経営者としての環境は最高なんじゃないかな。意思決定は常に怖さを伴いますが、ここではスピードをもって向き合えるんですよ。