「善し」を追求する経営者。

Hokuetsu Co.,Ltd. - President Tomoyuki Asano - 2018.2.20

株式会社ホクエツ

浅野 智行

ホクエツの2代目社長。
他、丸越工業を含めた2社の社長も務める。
大学を卒業しすぐに横浜の家庭用品問屋に入社。
3年間勤め上げてから燕に戻る。
ホクエツ入社後に営業職、役員職を経て、
35歳の時に社長となる。

より深く、より本質的に
経営を理解しアップデートし続ける。
利害関係者全体に「善し」を伝える存在。

この100年間において、何が最も変わったのかと言われれば、それは時間の概念であるように思います。現代の法人は未知の領域にいます。社会の変化スピードが指数関数的に高まっているからです。30年ほど前には”10年ひと昔”、20年ほど前は”3年ひと昔”と言われました。10年ほど前にはドッグイヤー(1年が7年に相当)と言われ、現在にいたっては、AIの進化速度に熱狂するばかりです。現代を生きる法人格の1年は、数十年前からすれば信じられないような価値の積み上げに見えることでしょう。
同時に、経営者の存在価値はますます重要度を増しています。一人の経営者が経験する時間の価値は一方的に高まり、経営のドライビングは劇的となり、蓄積される経験値も膨大です。果たしてこの現代において事業を承継するということはどういう時間価値を受け継ぐことなのか。今後10年ほどの間に、燕もまた新しい世代への事業承継のタイミングに入ります。浅野社長の思考と行動は、示唆に富んでいます。先代の存在を理解することで自身の糧とし、柔軟性と強固な哲学を駆使し、時代を超える「善し」を追求し続けているのです。

意思決定に対する責任はクリアにしたい。

情報という素材を仕入れて、技術とアイデアで加工していくとプロダクトが生まれます。我々の商品は、土を攪拌する機械や、育苗の機械という農機具の中でもニッチなアイテムですが、この大原則は何も変わらない。弊社グループの中心は2社。商社機能をメインにしたホクエツと、製造機能をメインにした丸越工業。どちらも独立した法人です。ホクエツが直接お客様とひざをつきあわせながら話ができる情報のタンクだとすれば、技術が蓄積され情報を丁寧に可視化できる丸越が技術のタンクです。我々はお客様からの受託を待ちません。開発コストはすべて自前。試作はまずお客様に使っていただき問題を発見する。クリアすべき箇所をクリアしてから製品化する。生まれた製品を各営業所が新しいお客様にコミュニケートしていく。愚直なまでにシンプルなこのサイクルが、私たちのコアであり、たどり着いた姿勢なのです。
この中で、意思決定者である私が背負う責任は誰の目にもクリアな状態にしていたい。基本すべての案件において、お客様への試作納品時は私も同行し立ち会います。責任の最終的な所在を外に対しても内に対しても明瞭にしたいからです。しかしそれで内側の人間が安心しては困る。私が責任は負っているのだけれど、手柄も叱咤激励も同じように感じ、共有/共感が深められる状態を常に作ることが真の目的です。関わる人たちの新しい可能性を開き、次につなげていく。そのための意思決定を追求することが、経営者としての責務なのです。

聖人君子ではない、
それでもせめて
不公平さをなくしたい。

公平であるということは本当に難しい。人間だから欲もある。本当の意味で実現するには、文字通り聖人君子にならなければならないでしょう。不可能に近い。だからこそ、これを組織や個人のテーマにすることは危険だと思う。そこで私は、公平であることを目指すのではなく、不公平だと思うものをひとつずつなくすことをテーマにしています。

たとえば、賞与を査定する時には必ず上司、役員、社長の3人以上が評価する仕組みにしている。一人だけであれば、日々の業務内での実績は評価できるかもしれないが、来客時に垣間見えるような穏やかな人間性などは見えないかもしれない。二人だけで判断してしまえば、個人の成長を判断できるかもしれないけれど、大きな可能性や伸び代には目が向かないかもしれない。三人で判断すれば、多様性にとんだ人物像をもっと多角的に判断できるということを理解したのです。評価される本人自体が気がつかない点に気づくことにもつながり、なにより不公平さを極力軽減できる。正しい評価は必ずモチベーションにつながる。会社全体、すべてのプロセスにおいて、こうしたことを徹底しています。ちゃんと意味のある手間をかければ、納得は常に深めることができる。経営者としても一個人としても妥協はしたくありません。

先代がやらないこと、できないことを見つける。

私は2代目で、経営者になって今ちょうど二十歳。会社自体は46期目です。大学を卒業し横浜にある家庭用品問屋で営業を3年経験し燕に戻りました。横浜時代には5年で営業のトップになるという目標を決めていました。3年目の時は5番目でした。父から話があり戻ることになったのですが、目標への道半ばという思いが強くどこか納得できなかった。周りには、素晴らしい成果じゃないかと言われましたが、どうも自分には自分で決めたことを守りたいという意固地なところがあって、複雑な胸の内だったことを思い出します。

燕では、だいたい40代のご子息に経営を引き継ぐことが多いですから、30代というのは早かった。ホクエツに入り、10年間で役員も経験しました。しかし、いざ経営を受け継いだ時に決算書を見直し現実と向き合うことになります。父は創業者であり会社を大きくしてきましたし、力もあった。そのひずみが、全部数字に表れていたのです。業績自体が悪かったわけではない。しかし、在庫の考え方、給与設定、販管費など、手をつけねばならないところがうず高く積み上げられていて冷や汗がでました。大変なことを引き受けてしまったと感じたものです。 そこから会社全体を徹底的に整理整頓しました。社長になって2年間、赤字を出しました。うみを全部出し切る覚悟でやったのです。その時、担当だった銀行員から「3年目の赤字が出たら、あなたに経営者の能力がないということだ。失格だってことなんですよ。」と言われ、強烈な怒りが湧き上がった。これが自分の心に火をつけたんですね。今でも鮮明に思い出せます。この言葉がなければ、今の自分はないかもしれない。

先代という
最高のパートナー。

結局、先代のやってきたことの大部分を変えました。しかしこれは先代が悪かったから反面教師にしたということを意味しません。むしろ、最良の先駆者だったということだと理解しています。父が敷いたレールを私は受け継いだわけですが、私はその中で不公平だと理解した事に関して、一つずつ丁寧に向き合ってくればよかった。たとえば森があってそこを開墾しようとした時、森の木々をどんどん切り倒していく人間は雄々しく力強い方法で前に進むでしょう。しかし切り開いたその土地に畑を耕し、作物を収穫する人間には、緻密な戦略と方法論が必要なのかもしれない。どちらもできる稀有な人材は確かにいます。しかし我々は結果的に、二人でその二つを担ったのです。どちらが欠けても畑から持続可能な収穫は上がってこない。私はその点において、先代という最高のパートナーを得たのです。